イタリア生活で見つける「びとくらし」
イタリアでの日常生活の中にある、すこしだけ幸せに感じたり、すこしだけリラックスできたりするような「びとくらし」的な出来事を、マルケ州アンコーナ住まいのライターが紹介します。
イタリアに暮らす彼女の話しを聞いていると、度々、イタリアでは日本と全く違う時間が流れているように感じることがあります。しかもとても豊かな時間でした。時間の流れの違いの中に豊かさの理由が隠されているように思えてなりません。ぜひ、この理由を一緒に探してみませんか?
新しく感じた違い
先日のエッセイでも紹介させていただきましたが、今年の夏前に新しい仕事に就きました。イタリアの夏の浜辺を彩るStabilimento(海の施設)と総称される海辺のレストランでカメリエーラ(給仕係)としての仕事だったのですが、まだお客様の少ない5月半ばからお試し感覚で働き始め、6月から8月というヨーロッパの長い夏休み期間は脇目も振る暇なくフル回転し、ようやく2021年の夏も終わり、無事にここでの任務を終えることが出来ました。
大きな失敗もなく、体調も崩さず「海辺での仕事はこの日でお終い」と決めていた日まで、元気に勤め上げることができホッと一安心。
複数のメンバーと共に仕事をする経験は今回が初めてだったわけですが、想像はしていたものの日本とは違う職場のしきたりや空気感に目を丸くすることも多々ありました。
まずはスタッフのオリジナリティ。アフリカ系、東欧系出身者の多いこと。共通言語はイタリア語ですが、母国語が同じ人たちの間ではその国の言葉での会話が始まりますし、耳馴染みの全くない音が続いて本当に興味深い。そして8月には新たに日本人スタッフが仲間入りをしたため、イタリアの片田舎のレストラン内で日本語の会話が響いている、という稀な現象も起こすことが出来ました。
宗教やしきたりも異なり、違いを受け入れることが必要なことは必須です。その点に関して言うと、供に働いていた純イタリア人たちの対応から、長い間近隣国との征服や征圧を繰り返し、国としての統一が遅かったイタリアでは部外者を排除しないという高い協和性が育まれているように感じました。
また、職場内のフランクな空気感も特筆すべきところで、イタリア語には日本の敬語や謙譲語の様に、自分と相手の立ち位置を表現するための言語変化は存在せず、上司であってもお客様であっても表現は同じ。
たとえば、自己紹介をする際は、苗字よりも名前を伝えるのが当たり前なので、職場内でも呼び名はみんな下の名前で呼び合います。そう、老いも若きも、上司も部下も。
私の職場ではオーナーが開店から閉業するまで、期間中無休で常勤していた訳ですが、その彼に対してでも若いアルバイトの子達ですら、はまるで自分の友達に話しかけるかのようにくだけた調子で話しかけるのです。そのせいか、職場の雰囲気もフラットでいわば学校の休み時間の様。
日本よりも纏まりが無く、締まらない雰囲気が常に漂っていました。自由な雰囲気は好ましい反面、仕事をするという環境としてはどちらの方が良いのでしょうか、迷うところです。
幸せの基準点を変えてみる
夏の仕事が終わり、10日間ほどの休暇を特別に頂戴した後、今はまた新店舗にてバールマン、そしてたまにジェラート屋さんいう職についています。
そもそも、2020年の年末に転職のお誘いを受けたのはこの新店舗での採用予定でした。
2021年の春過ぎにオープンするからそこで働かないか、というお誘いを受けて了承したものなのです。
ですが、春先になっても店の完成はまだまだ遠く、「とりあえず、新店が出来るまでは海のスタビリメントで働いて、店が完成次第そちらに移動」となり、しぶしぶ海のレストランで働きだしました。その後、進展がほとんどなくこの時期まで異動が延期となったのです。
イタリア人はルーズだ、という話しはよく聞く話しかもしれませんが、とにかくルーズへの耐性が強い。スケジュールというものはそれより遅れて当たり前、という観念が植えついているので何があって殆ど動じません。
ですので、スケジュールに合わせて前もって準備すると言う感覚よりも、完成したものを見てから準備を始めていきます。最初の段階で完璧なものは決して求めず、自分たちのキャパシティの約70~80%の出来る範囲で物事を進めていくような感覚です。日本人の視点から見ると、ですが。
また、日本ならば何事でも目標に向かって全ての物事を前もって準備し、完成の段階では100%の成果を出すことが当たり前なのですが、こちらだとたとえ完成していなくても「まぁ、良し」と認められます。 「たとえ未完成であっても受け入れる」力は、私にとっては才能の一部だと思うのですが、それが存在するのです。
日本人の私からすると「少しの注意と努力で十分に対応できること」と感じることも多く、何をやっても常に未達成感があって、むずむずとした気持ち悪さが残ります。でも、彼らはなぜか大満足。足らないところは、また後から足していけばいいや、という広い心意気を見せています。
イタリア人のこの適当な感覚について、特に仕事上では成立しないのではないか、と最初は憤っていました。しかしながら、完璧ではなくとも及第点はもらえる程度の出来栄えで、だれも困ることなく、みんなが幸せなのならば、日本の様に完璧を求めてキチキチと前のめり気味に事を進めるよりは幸せなのではないだろうか、なんて感じるようになってきました。
満足するポイント、幸せである基準を少し変えることで楽に生きることができる。
自分が完全にイタリア化してきていることを強く感じる今日この頃です。、